
ドアが閉まる。その向こうには見知った、しかしもう見ることのないだろう最後の笑顔があった。安っぽい金属の扉がゆっくりと外の景色をさえぎり、俺の前から彼女の姿を消し去った。ばたん。勢いのわりにおおきな音がこの終わりを突きつけた。土曜日の昼下がり、寒い日だった。
木曜日の夜、何気なくかけた電話に彼女は躊躇いがちに「……言いたいことがあるんだ」と言った。声のトーン、躊躇う様子、息遣い、エトセトラ。3年も付き合っていれば、馬鹿でもそれの意味するところは何となく察しはつく。ただし、その予想だけは当たってほしくなかった。別れ話。そんな気を振り払うように、いたって平静を装いつつ、いつものように少し冗談を混ぜて受話器に聞き返す。
「ェ、ォレナンカ悪いことしたっすか、ははは」
失敗。声が裏返るとか、逆効果に決まってる。
「う、ううん。そんなんじゃなくって、……主にあたしが悪いんだけどさ」
もうここで意味が分からなくなってくるあたり、やはり馬鹿は3年たっても馬鹿なんだろうと思う。受話器は続く。
「ほんとにごめん。……前言ってた来月の旅行なんだけどさ、シフト入っちゃって行けなくなったんだよね」
「え」
「うん、ほんとごめん。でもさ、1ヶ月以上前にシフトの希望表出すことになってて、それでそのときは旅行その日にするって話なかったからさ……。ごめんね」
来月はその週を逃すと、逆に俺のほうが忙しくなる。資格試験に学園祭、講義の発表も控えてるから、当分は行けそうにない。スケジュール帳に空きを探しているうちに再来月12月のページになっていた。相変わらず月の後半まで休日の予定は埋まっており、クリスマスあたりまで無理そうだと手帳はいう。今回の旅行は車中泊前提だったから、来年の春までこのプランはお預けになりそうだ。そんなことを考えつつ、彼女の謝罪にこちらも日程が珍しく厳しいことを伝えつつ互いに詫びあった。仕方がない。思ってたことと違ってまだよかったと思って、まぁ空いた日は久々に後輩を引きずってカラオケにでも行くか。
「まぁ、お互いスケジュールとかこれから早めに、一緒に組んで行こう。車中泊だともう寒くなってきたから次の春までキツいだろうし、のんびり考えようや」
「……うん、そうだね」
嫌な間とともに、元気のないトーンは相変わらず。馬鹿でも分かる、まだ何か、しかも今のよりも大きななにかがある、と。
向こうで深呼吸するブレス音がかすかに聞こえる。彼女の落ち着こうとするその息で逆に俺の心臓音は徐々に早く、どんどん大きくなっていく。心なしか頭痛と目眩もする。その瞬間、もう一度俺は予感した。別れ話だ。今回のそれは、残念ながら、ただの勘ながらも非常に確信めいていた。そして、こういうときに限ってそういう直感は当たるものである。
「ごめん、あなたの他に好きな人ができました。……別れてください」
これが動物の勘だとしたら、欲しくなかった。彼女の努めて明るくつくったであろう声色が、覚悟していた分軽くなると思われた辛さを倍増させ、落とさぬようにと強く握ったケータイはバイブも作動していないのに小刻みに震えていた。不思議と怒りという感情は湧いてこなかった。怒り狂おうが喚き散らそうが、彼女はもう戻ってこないのは明らかだったから。この瞬間が3年間で一番に馬鹿ではなかったかもしれない。
土曜日の朝、上陸のおそれまで言われていた台風は進路を少し南寄りに変え、風雨は時雨の範疇を越えない程度であった。時期相応の服装では若干寒かったのが誤算だったが、俺にとってそれは些細なことであったし、いっそもっと寒くても、もっと雨や風が強くても、もはや意に介さなかっただろう。
『俺のことはもう好きじゃないのか、これっぽちも愛してはいないのか』
『……。好きじゃない、わけじゃない』
『それは好きになった人にも可哀想とは思わないか?心のなかで二股をかけてるんだぞ』
『浮気したあんたが言えたことじゃないでしょ』
『う……。その節はほんとにすいませんでした……』
『……で、あたし、どうすればいいのかな』
『告白はしてないんだろ?その人に』
『うん』
『じゃあ、俺のことは構わず告白して来い。もしそれでダメだったら精一杯罵りながら抱きしめてやるから』
『』
『それが俺たちのやり方だろ?俺が浮気しちまったときも、おまえはそう言ってくれたじゃないか。結局俺は告白せずにおまえの元に帰ってきたけどな』
『なんであの子に告白しなかったのよ。そういう約束だったでしょ?』
『違えよ。もう一回話して、それでやっぱりあの子が好きだったら告白してくるって言ったじゃねぇか。俺はおまえを選んだだけだよ』
『むー』
『とりあえず、ほんとにその人が好きなら告白してくること。で、ちゃんと報告しろよな』
『……分かった』
あのあと、昨日彼女はその人に会えたのだろうか?告白できたのだろうか?結果は?俺は、そんな結論の出ない堂々巡りをしていた。そこに、
「おはよう」
いつもの彼女が、少し息を弾ませてそこにいた。俺の好きな服、俺の好きな髪型、俺の好きな香水を身につけて、ただし笑顔は3週間前に見たそれとは違っていた。その笑顔で俺は全てを悟った。目を合わせるのが辛かった。部室に向かうエレベーターの鏡ですら、今の俺には邪魔な存在だった。
15時手前、夕方からバイトだという彼女と最後のご飯を食べに学生街に繰り出し、その帰り、荷物を取りに元いたサークルの部室まで戻る。おそらくこうして2人きりで出歩くこともないだろう。恋人繋ぎだが、一般的な握りかたと男女反対で俺の腕のほうが後ろになるこの繋ぎ方も、たぶん最後だ。俺の掴んでいるのは彼女の左手、今こうして俺の手に当たっているこの指輪もあと1時間もしたらお役御免となる。これは去年のクリスマスにペアで買い、在庫の関係で今年の年明け早々のプレゼントになったから、10ヶ月弱の任期。彼女と付き合い始めたのが3年前の10月だから、本当に3年の付き合いだった。美術館デートから始まり、映画も観たし買い物やカラオケ、喫茶店にも行き、旅行も何回かした。お互い人生初の「休憩」にも入って、結果は本当に休憩しただけだったが、設備の充実さにはしゃいだこともあった。彼女とのそういう思い出も、もう増えることはないのだろう。
『俺のことなんかわすれて、新しい彼氏とうまくやりな』
『……忘れろって、どういうこと?』
『明日、俺朝から試合なんだ。そのあと、まだ少しだけ片付けることがあるから午後にそれ済ませて……、さよならかな』
『どういうこと、それ』
『痛いのとか、俺恐がりだからムリだな、はは。……高所恐怖症が飛び降りとかも、ムリ、かな』
『ねぇ、なに言ってるの、あんた』
『おまえ無しの人生とか、それこそムリなんだよ。俺この3年間、どれだけおまえに助けられたか。何度死にたいって思ったかもう覚えてねえ。そん時もな、おまえが悲しむかもなって、おまえのこと考えたら前向いて踏ん張る元気出てきてさ。おまえにも何回弱音吐いたか。おまえ、弱い人間好きじゃないって言ってたのにさ、なんだかんだ言って俺のこと助けてくれてさ。ほんとに嬉しかった』
『』
『でももう、ムリなんだよ。もう生きる希望っていうかさ、何を支えに生きていいか分かんねえんだよ。だからさ、これがわがままな彼氏からの最後のお願いだ。聞いてくれ。俺のことはすっぱり忘れてくれ。頼む』
『やだ……』
『……え?』
『そんなのやだ。それって、この3年間のことも、全部なかったことにしろってこと?あたしたちの3年間、全部忘れろってこと?あたしってあなたにとってその程度の女だったってこと?ねぇ、なんとか言ってよ。あたしはやだ、忘れたくなんかない。この3年間、いろいろあったけどとっても楽しかったし、とっても嬉しいこともあって、あなたのことが大好きだった。それを忘れるなんて、あたしにはできない。だから、だから……、だからそんなこと、言わないで……』
『ごめん、……ごめん。じゃあ、わがままついでに最後、2つだけ。……いいかな』
『うん』
『ひとつめ。さっきのは無し。ごめんな、おまえが今、本気で泣いてくれて、俺……ほんとにうれしい。ありがとう』
『ばか……、死ぬとか忘れろとか許さないから』
『うん、大丈夫。辛いけど、絶対死なないから。ありがとう。……それでもうひとつなんだけど、……これからも、友達として、一緒に遊んでほしい。2人じゃ気まずいとかいろいろあるだろうし、他にも呼んでにぎやかに、さ。3年も付き合ってた分お互いのことも分かってるだろうしさ、相談とかも、……いい?』
『もちろん、忘年会とかも呼んでいいよね?』
『ああ、呼んでくれ。今年も楽しみにしてるぞ、幹事様。おまえも何かあったら相談してくれよ、俺はいつでもおまえの味方なの、忘れんなよ』
『うん。……ありがと』
さっき、部室であれだけ、恥ずかしくも彼女の前で泣いたのに、また涙があふれてきた。部室に帰る道、もうこれで終わりなんだと思ってしまってから、この3年間のことが、この3年間の彼女の姿が走馬灯のようによぎり、俺はせっかく繋いだ手を離してしまった。彼女は何も言わず、左手をこちらに向けたまま俺の一歩前を歩いた。雨の止んだ曇り空を見るように涙をこらえ、少ししてから最後の恋人繋ぎを再開した。入らない力を振り絞ると、少しだけ強く握り返してくれた。白い手は、さっきまで店の中にいたというのに冷たかった。次の彼氏も手は暖かいらしい。よかったな、俺がいなくてもこの冬は大丈夫そうだ。エレベーターの鏡に映った俺たちは、目が充血してること以外はこれまで3年間と変わらない、いつもどおりの俺たちだった。
ああ、だから愛想を尽かされたのかな。俺は強くなると言った。たしかに少しずつだったが変わってきたはずだ、本人が実感しているのだからそれは間違いないだろう。ただ、彼女にはそのペースは遅すぎたのかもしれない。待つことに耐え切れなかったのか、はたまた信じることに疲れたのか、それとも両方なのか。
震える手で鍵を開けると、暖房を付けたままの部室に入った。机の上にあるバッグに自然と目がいく。前のバッグが潰れたからと、今年の途中からこのバッグになったのを思い出す。夏にはサンダルも履き潰していた。今履いているパンプスや、たまにみるスニーカーもそろそろ寿命が近いはずだ。今年のクリスマスはそのあたりを買ってあげようと貯金していたのも、もう意味を成さない。空けていたクリスマスも、なにをしようか。ああ、そうだ、そんなことよりも。もうこれで、本当に彼女とは、終わりなんだ。これで……
「落ち着いた?」
気付けば俺は立ったまま泣いていた。彼氏らしいこともしてやれなかったし、迷惑もかけた。悲しいのはもちろん、それ以上に、悔しかった。せめて泣き顔を見せまいと俺は彼女に背を向けて、そんなことを言った。
「そんなことないよ。そんなことない、絶対に。あたし、本当にこの3年間、楽しかったよ」
床にへたり込んで涙を拭く俺に彼女は近寄って、小瓶を取り出した。シンプルながら綺麗な容器の中に、ほんの少しだけ透明な液体が入っていた。
「これ、あたしとあなたが付き合いだしたとき付けてた香水。あなたとデートするときはずっとこれ付けてたの。見て。もうこれだけしか残ってない。……手首出して?」
差し出した右の手首に、彼女は液体を少しだけ付けてこう続けた。
「あたしのこの香り、忘れないでね。この香水、まだ少し残ってるの、これ、指輪と一緒に大事に取っておくから。だから、あなたもあたしのこと、あたしとの3年間、この香り、覚えていて」
「」
「じゃあ、もう行かなきゃ。……3年間、楽しかった。あなたと付き合えて、ほんとに良かった。3年間、ほんとにありがとう」
「……こちらこそ、おまえと一緒にいてとても楽しかった。3年間ありがとう」
彼女はバッグを手に、部室のドアに手をかける。少しだけ音を立ててドアが開き、敷居をまたいだところで、こちらに向きなおして、手を振った。
「……いってきます」
俺は、今日何度目かの涙をこらえながら、少しかすむ景色のなか彼女のほうを見て、精一杯の笑顔を向けた。
「いってらっしゃい」
ドアが閉まる。その向こうには見知った、しかしもう見ることのないだろう最後の笑顔があった。安っぽい金属の扉がゆっくりと外の景色をさえぎり、俺の前から彼女の姿を消し去った。ばたん。勢いのわりにおおきな音がこの終わりを突きつけた。土曜日の昼下がり、寒い日だった。
フィクションですよぉ。これはフィクションなんですよぉ。
だいぶ忘れたつもりではいるんですが、読むといろいろと思い出しますねぇ。
特に、今でも同じ香水の匂いを嗅ぐとoh...てなるときがあります。五感ってのは、すごいもんです。
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